
facebookの仲間の誰だったかは忘れたちゃったけど、年末に、
「映画『杉原千畝』を観たけど、すごくよかった!」
という書き込みがありました。
その時、
「そうか、こりゃ~観なくっちゃ」
と思ったままだったので、週末にチェックしたら、もう1日に2回しか上映
していませんでした。
「これじゃあ、もうすぐロードショーも終わっちゃう!」
と焦って、その場で席を予約して、昨日、ミッドランドシネマ名古屋空港へ
観に行ってきました。
土曜に予約した時は、まだ3-4名しか予約が入っていなかったし、封切りなって
もうかなり時間が経っていたので、
「ガラガラだろうな」
と思いつつ、上映室に入ってみると、驚いたことに、7割方席が埋まっていました。
杉原千畝は、光が小学生の時、夏休みの宿題で取り組んだ時、
「せっかく車で1時間くらいの岐阜県の八百津に杉原千畝
記念館があるから、みんなで行ってみよう!」

と見学に行ったことがあったので、彼がどんなことをした人かは知っていました。
その上で、映画を見たのですが、新たに多くのことを知ることができました。
例えば、彼は外交官ですが、実態は、諜報員に近かったんですね。
驚きました。
第二次大戦時、ヒットラー・ドイツが締結していた独ソ不可侵条約を近々破棄して、
ソ連に侵攻するという秘密情報を入手したりして、ドイツと友好国だった日本の
外交官なのに、ゲシュタポの標的にされたりしたこともあった!

そして彼が日本本国の通達を勝手に解釈して、リトアニア在住の多くのユダヤ人に
日本通過ビザ、いわゆる『命のビザ』を独断で発給することを決断するに当たって、
彼の大学(ハルビン学院)のモットー「自治三訣」
「人のお世話にならぬよう、
人のお世話をするよう、
そして報いを求めぬよう」
が後押ししたということ。
このビザを手にしたユダヤ人とて、その後、楽々とソ連を通過して、日本、そして
最終目的地であるアメリカへたどり着けた訳じゃありませんでした。
リトアニアからシベリア横断鉄道でウラジオストクへ移動し、ここから船で日本へ
向かおうとしたユダヤ人たちを待っていたのは、
「たとえ日本通過ビザを持っていたとしても、最終目的地に
向かう書類、お金を持っていなければ、日本行きの船に
乗せることはならん」
という日本本国からの通達が・・・
しかし、たまたまこの地に、彼の大学の後輩・根井三郎さんが総領事代理として
赴任していて、
「本当にあの杉原さんが署名したビザを持っているなら、
全責任は自分がとる」
という決断があって、日本行きの船に乗ることができたこと。
いくつかの偶然、必然があって、多くのユダヤ人の命が救われたんですね。
しかし、外務省訓令を無視してビザを発給し続けた杉原は戦後外務省を辞めさせ
られ、その後、杉原に感謝の意を伝えるために、わざわざ日本にまで訪ねてきた
ユダヤ人に、
「杉原千畝という人間は存在したという記録は
ありません」
と答えたこと。
いろんなことを知ることができました。